伝説のパリコレモデルとして有名な山口小夜子さん。
目鼻立ちハッキリで高身長な西洋モデルが全盛期だったファッション業界に、おかっぱ黒髪、切れ長の目の山口小夜子は新しいトレンドを呼び込み、絶大な影響力を及ぼしました。
資生堂のCMでそのアジアンビューティーな魅力はお茶の間にも浸透し、故人となった今も彼女は伝説として語り継がれています。
そんな山口小夜子さんの、思わず息をのむウォーキング動画や、壮絶な晩年のエピソードをご紹介いたします。
Contents
山口小夜子のウォーキングが神がかってる!
山口小夜子のウォーキング動画①
まずは、まだ大人しめな山口小夜子のウォーキング動画をどうぞ
身長170cmの山口小夜子は他のモデルより背が低いため、服を見劣りさせてしまう可能性を考え、かかとを地面に付けず、上下の動きを加え体を大きく見せる工夫をしてウォーキングをしていました。
また、日本舞踊のようななめらかな手や足の運びで服をより印象的に見せる努力もしていたそうです。
モデルの中では小柄で派手さはありませんが、彼女が服を着るウォーキングした途端にゴージャスになりますよね。気迫のようなものが感じられます。
山口小夜子のウォーキング動画②
モデルだけでなく女優、パフォーマー、ファッションデザイナーと多岐にわたる活動もしていた山口小夜子は、ただ「着てみせる」だけでなく「着て魅せる」表現をショーに取り入れています。
山口小夜子が35歳の時の、山本寛斎のファッションショー「寛斎元気主義」の映像です。
(1分過ぎくらいから山口小夜子のウォーキング)
(1分40秒あたりで山口小夜子のウォーキング)
どこか神秘的で存在しない人のような雰囲気がありますよね。
絶大な存在感と、服を邪魔しない日本的な奥ゆかしさが不思議と混同していて目が離せなくなってしまいます。
山口小夜子のプロフィール
名前:山口 小夜子(やまぐち さよこ)
生年月日:1949年9月19日
没年月日:2007年8月14日
神奈川県横浜市中区生まれ。
【幼少期】オシャレが大好きで、目立つ格好をしていたためイジメにあい孤独な少女時代を過ごす。
【高校卒業後】1969年 服飾デザイナーを志し、杉野学園ドレスメーカー女学院へ入学
仮縫いモデルを依頼された事がきっかけで、ファッションモデルになる事を決意する。
【専門学校卒業後】モデルのオーディションを多数受けるが、あまりにも日本的な小夜子のルックスがその当時のファッション業界には受け入れられず落選の日々。
【22歳】最後と決めたオーディションで、当時「新進気鋭のデザイナー」として活躍中の山本寛斎にその魅力を発掘されモデルデビュー
【23歳】パリコレデビュー。小夜子の不思議な美しさに「東洋の神秘」と注目が集まる。
【24歳】資生堂がイメージキャラクターとして小夜子を起用(12年間専属契約)
資生堂CM集山口小夜子
【28歳】1977年 アメリカ ニューズウィーク誌の「世界トップモデル6人」に選出される
以後モデルだけでなく役者、ダンサー、ファッションデザイナー等多岐にわたる活動を開始。
【57歳】2007年8月14日急性肺炎のため死去
山口小夜子の壮絶すぎる晩年とは?
57歳という早すぎる死を迎えた山口小夜子さんですが、その晩年は壮絶でした。
1人で誰にも看取られず亡くなった彼女の最期を「孤独死」と表現する人もいます。
彼女は急性肺炎で亡くなりました。1人暮らしの自宅で倒れ、発見された時にはすでに3日間も経過していたそうです。
一週間前までは元気だったそうなので、本当に突然の死だったのでしょうね。
華やかなイメージの山口小夜子さんが、真夏に三日間も誰にも気付かれる事なく最期を迎えたニュースは衝撃的でした。
孤独だったのかというと、彼女の私生活は全くの謎なので不明です。
しかし、今後彼女は忘れられる事はないでしょう。世界のファッション史に名前を刻み、今でもなお語り継がれる伝説の人となりました。
山口小夜子は結婚していた?
彼女は生涯独身だったようです。
しかし、当時はプライベートな事や年齢までもが非公開だったため、彼女の恋愛や婚姻関係については未だに謎につつまれています。
実は同性愛者だったから結婚しなかったのでは?との噂も一部であったようです。
同性愛を題材にした作品に出演された事があったからだと思われます。
確かに女性からの憧れや支持の方が大きいようには感じられますが、彼女が同性愛者だったかどうかは、こちらも謎です。
ファッションデザイナー山本寛斎との関係は?
彼女の魅力を見出したのはファッションデザイナーの山本寛斎でした。
すぐに山口小夜子は世界的トップモデルとなりましたが、その後も長い間山本寛斎のミューズ(ブランドを象徴するモデル)を務めています。
一部の人は、山本寛斎と不倫関係にあったため結婚しなかったのではないかと噂していたようです。
こちらも山口小夜子のプライベートは謎に包まれているので、実際どうだったのかは謎ですが、彼女は過去にインタビュー記事にこう答えています。
「だから私は寛斎さんに拾われたの。もしもあのとき、寛斎さんのオーディションに行っていなかったら、私はモデルを辞めていた」
今の自分があるのは全て山本寛斎のおかげだという恩義の思いから、彼女は山本寛斎のショーに積極的に参加していたという方が納得できそうですよね。
最後に
一時期、ニューヨークやパリでは「SAYOKOマネキン」とよばれる小夜子の顔に模したマネキンがショーウィンドウに一斉に並ぶほど、世界は彼女の魅力に取りつかれました。
亡くなって十数年経った今でも数多くの人が彼女を忘れられず魅せられ続けています。
今後、彼女に影響されたアーティスト達が今まで見たことのない、また違った日本の美を作り出してくれる事が楽しみですね。